北陸

October 07, 2012

2012年10月7日 美濃、越前 15 神明神社

 越前からの歸宅ルートを考えたとき、一度、岐阜に入るルートを考え、道は細いが國道一五七號を南下し、道の驛うすずみ桜の里ねおを目指すことにしたが、途中で通行止めになっており、結局、林道から縣道二五五號を走ることになった。ちなみに、通行止めの標識が一つしかない上、見つけにくいところにあり、私と前を走る車は十數キロも無駄な道を走らされることになっている。

 そういったこともあり、偶然、この神社を發見したのである。時閒的にも最後の訪問地であろうと、少し寄ることにした。なんと、この周邊には、約五千年前頃、繩文人が住んでいたという。おそらくは神明の泉は當時から使用されていたのだろうか。そうであれば興味深いことであるが、ありえないか。

1.社號標、一之鳥居
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2.神橋
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3.二之鳥居
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4.拜殿
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5.本殿
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6.末社
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7.靈水神明乃泉
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8.根尾川
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★神明神社★ 岐阜県本巣市根尾上大須

・祭神は天照大神。明神大神を配祀。明神大神は、およそ千二百年前から明神山の山中にある岩井堂という洞窟の中に祀られていた。
・創建由緖等不明。

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2012年10月7日 美濃、越前 14 平泉寺白山神社

 當初、訪問予定に入れていなかったが、白山長瀧から九頭龍へ出るとさほど遠くないことがわかり訪問した次第。松本利昭先生の『巴御前』『小説木曾義仲』の中で、平泉寺の名と齋明の名が何度か出ていたので、頭の中にはその名が刻み込まれていた。

 白山信仰の三つの馬場のうちの一つで、白山比咩神社、長瀧白山神社を訪問していた自分には最後の地であった。境内は苔が多くきれいなところである。しかし、白山の山頂が越前馬場に屬すると言うことは驚きであるが、なかなか、三之宮から奧へ進む登山道も氣がいいところであり、白山の氣の良さが傳わってくる樣である。

1.參道
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2.社號標
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3.參道石段
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4.石鳥居
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5.參道
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6.木鳥居
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7.拜殿
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・安政六年(1859)の造營。
・天正二年(1574)、兵火にかかり燒失する以前は、正面四十五という我が國最大の拜殿であったという。

8.拜殿扁額
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・日光山輪王寺第二代門蹟である一品天眞親王の筆と傳わる。

9.本殿
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・寬政七年(1795)の造營。
・越前藩主松平重富による再建。

10.三之宮參道
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11.末社三之宮
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・祭神は栲幡千千姬命。

12.楠木正成墓塔
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・平泉寺は後醍醐天皇の建武の中興に際し、北條氏一族を大野郡牛ヶ原に攻め滅ぼすなど、官軍との關係が密接であった。古い緣起によると、楠木正成の甥惠秀律師は平泉寺衆徒の一人であり、延元元年(1336)、三之宮に參籠していると夢に大楠公が騎馬姿で現れ、不思議に思っていたが、やがて正成の湊川戰死を聞き知るにおよんで、それがまさに夢見の日とわかり、その場所に五重の石塔を立てて菩提を弔った、と傳える。

13.劔之宮への道
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14.攝社越南知社
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・祭神は大己貴尊。

15.攝社別山社
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・祭神は天忍穗耳尊。

16.社殿の竝び
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17.納經所
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18.末社開山社
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・祭神は開祖泰澄大師。

19.末社結神社
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20.末社今宮神社
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・祭神は鸕鷀草葺不合尊。
・古來、平泉寺四十八社の一つとして字今宮の地に鎭座していたが、天正二年(1574)の兵火で燒失した。
・天正十一年(1583)に再建。その後は村民氏神として祭祀されたが、明治四十年(1907)、平泉寺白山神社境内へ遷座。

21.末社鎭守宮
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・明治維新の神佛分離令までは平泉寺四十八社の一社で字中谷二十二番地に鎭座していた。
・明治四十年(1907)、平泉寺白山神社境内へ遷座。

22.末社稻荷神社
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23.末社
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24.御手洗池
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・泰澄大師が、養老元年(717)、白山登拜の途中、この林泉を發見し、大師の祈念に應じ、泉の中の影向石に白山の大神が出現し、「神明遊止の地なり」とのお告げがあったため、當地に社を建てて白山の神を奉齋されたと傳える。
・當社の發祥の地であり、「平泉寺」「平淸水」の名の由來はここにある。

25.神泉
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26.神井
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27.末社池尾神社
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28.境内の苔
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29.社務所
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★平泉寺白山神社★ 福井県勝山市平泉寺町平泉寺56-63

 國史蹟(白山平泉寺城蹟)
 國史蹟(白山平泉寺舊境内)
 
・舊社格は縣社。
・祭神は伊弉册尊。
・正式名稱は白山神社。
・養老元年(717)、泰澄が白山に登る際、一林泉を發見し、ここが神明の地であることを知り、ここに神社を建てたという。
・中世以降、比叡山延曆寺の勢力下に入り、靈應山平泉寺として知られるようになる。
・白山信仰の越前側の禪定道の拠點(越前馬場)として、最盛期には四十八社三十六堂六千坊、僧兵八千人の巨大な宗敎都市を形成したという。
・『平家物語』では、平家と木曾義仲方との燧ケ城の戰いで、平泉寺の長吏齋明が木曾義仲を裏切り平家側についたとされる。齋明はその後の倶利伽羅峠の戰いで捕らえられ、處刑されているが、一方で義仲はその戰いの後に藤島七鄕を平泉寺に寄進している。
・戰國時代には朝倉氏と肩を竝べる越前國の一大勢力であったが、天正二年(1574)、一向一揆勢に燒き討ちされ衰亡。
・十六世紀の末期に豐臣秀吉などの崇敬を受け、顯海が復興し、江戶時代には福井藩、越前勝山藩から寄進を受ける。
・寬政八年(1688)、いさかいが絕えなかった越前馬場と加賀馬場の問題が江戶幕府により裁定された際に白山山頂が平泉寺領と定められ、白山頂上本社の祭祀權を獲得。
・明治維新の神佛分離令により寺號を捨て、白山神社となり、現在に至る。

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2012年10月7日 美濃、越前 13 道中

 平泉寺白山神社まで車で行けない事になっており、臨時駐車場からバスでの移動となったのであるが、待ち時閒に少し寫眞を撮影。

1.蜻蛉
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2.野花
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2012年10月7日 美濃、越前 12 勝山城蹟

 本來の勝山城とは少し位置がずれているらしい。が、石垣などの遺構を破壊して建物を建てたということでずらしたのであろう。しかし、建物蹟に建物を建てるというのは基盤などを考えると當然のことでもあるので、この邊りは難しい判斷であろう。しかし、殘念だ。

1.模擬天守閣
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2.紅葉
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★勝山城蹟★ 福井県勝山市平泉寺町平泉寺85-26-1

・天正八年(1580)、柴田勝家の一族である柴田勝安によって築城される。
・江戸時代に入ると、慶長六年(1601)、福井に封じられた結城秀康の支配するところとなる。
・寬永元年(1624)、松平直基が三萬石をもって封じられると、勝山藩の藩廰が置かれた。その後、松平直良が入るが、正保元年(1644)、直良が移封されると廢城となり、勝山の地は天領となった時期もあった。
・元祿四年(1691)、小笠原貞信が二万二千石で勝山の地に封じられ、以後明治維新まで小笠原氏八代がこの地を治めた。
・寶永五年(1708)、城蹟への築城許可が下り、七代藩主小笠原長貴の代に完成。文政五年(1822)、本丸より出火し、門、髙塀、土藏を殘して燒失したが、文政九年(1826)、再建された。明治時代に廢城となった後、城の建物は取り壊された。
・現在の勝山市役所付近が城蹟中心部で、市役所と公民館があるあたりが本丸蹟であり、市役所前の道路付近に堀が設けられていた。天守臺や石垣が昭和四十年(1969)まで殘っていたが、市民会館建設に伴い撤去され、現在は市民会館敷地に城蹟の碑が建つのみである。
・城蹟近邊に、姬路城に似た日本一の髙さの模擬天守を持つ勝山城博物館が建てられているが、歷史上の勝山城とは位置、形式ともに關係はない。

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2012年10月7日 美濃、越前 11 佛御前瀧

 平淸盛に愛されたという佛御前に由來する瀧である。佛御前は瀧の入り口の國道を挾んだ向かいの佛原ダムのダム湖に沈んだ地が佛御前の出生地という話である。

 瀧へは國道脇の駐車場から登りの遊步道を步いていかねばいけない。普段運動をしていない人にはかなりしんどい道かもしれないが、スポーツしている人にとっては、苦もなく登れるところであろうと思われる。瀧自體はあまり迫力のない三段の瀧である。やはり、開發、整備の手が入ったことが、本來の景觀をかなり損ねているのであろうと思う。殘念なことである。

1.遠景
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2.佛御前瀧
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3.下の段
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4.佛原ダムのダム湖
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★佛御前瀧★ 福井県大野市西勝原

・落差百メートル、三段の瀧。
・瀧の名は平淸盛に愛され、舞の名手として、平家物語にも登場する佛御前がこの瀧で髪を洗ったという傳說に由來している。

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