近畿:大阪

February 19, 2020

2020年2月19日 四條畷 5 三田製麺所阿倍野店

 近鉄阿部野橋駅周辺をうろつくのは約七年ぶりなのであるが、当時、食べに行っていたラーメン店などはことごとく消えており、店事情は大きく変化していた。ということでネットでチェックして、三田製麺所を選び、昼食。麺の重さを見て中盛にしたのだが、私が今まで行っていた店と違い、茹でた後の重さをはかっていたので、「は?」という感じであった。そういう店もあるのか、と。そういう意味ではかなり消化不良で量的にも足らなかった。残念である。味は悪くなく、近くにあれば、通うレベルかな、と。ま、今後行く機会があるかわからないが、阿部野橋まで出ていくことがあれば行く店にはなると思う。

20200219 2 三田製麺所阿倍野店

(味評価)
★★★★★★★☆☆☆ 7/10点

●三田製麺所●

住所 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋一丁目1-20 木村ビル

電話 06-4399-3838

営業時間 11:00 - 26:00

定休日 なし

HP https://mita-seimen.com/shop/20_abeno/

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2020年2月19日 四條畷 4 四條畷神社

 和田賢秀の墓からまた道を戾り、參道を今度は東へ著きあたりまで進む。途中、「ここどこやねん」というような笑ってしまうようなでっかい家もあったりして、田舎だな、と思ってしまう雰圍氣が覆ってきた。時閒があって、荷物がなければ、神社の背後にある飯盛山と城蹟も散策したかったのであるが、神社のみの訪問。しかし、髙所恐怖症の私にはちょっと怖い參道の石段であった。神社は、まあ思った感じの作りの神社であった。ただ、社殿が何故、南向きなのかは不明。石段の正面に鎭座して、正行公の墓所と向かい合う向きで建てるべきではなかったのか、とだけ思う。そういう意味で、なんとなく消化不良。

1.社號標
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2.參道、鳥居
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3.拜殿
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4.本殿
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5.攝社御妣神社
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・祭神は楠木正行母公。

6.楠公慰靈塔
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★四條畷神社★ 大阪府四條畷市南野二丁目18-1

・舊社格は別格官幣社。
・祭神は小楠公楠木正行。楠木正時、楠木正家、楠木正家子息、和田賢秀、和田正朝、和田紀六左衞門、和田紀六左衞門子息、和田紀六左衞門子息、大塚惟久、畠山與三職俊、畠山六郞、野田四郞、 野田四郞子息、野田四郞子息、金岸某、金岸某弟、關住良圓、關住良圓子息、三輪西阿、三輪西阿子息、河邊石掬丸、譽田某、阿閒了願、靑屋刑部を配祀。
・建武中興十五社の一。
・河内國讚良郡南野村字雁屋に「楠塚」と呼ばれる楠木正行の墓があったが、明治期になると明治政府によって南朝が正統とされ、正行の父である楠木正成が大楠公として神格化されると、その父の遺志を繼いで南朝のために戰い命を落とした嫡男の正行も小楠公と呼ばれ崇められるようになり、明治十一年(1878)、楠塚は「小楠公御墓所」と改められ、規模も擴大した。同じ頃、南野村飯盛山の山麓にある住吉平田神社の神職らが中心となり、楠木氏らを祀る神社の創建を願い出た結果、明治二十二年(1889)十二月十六日に神社創立と「別格官幣社四條畷神社」の社號の宣下が敕許され、翌明治二十三年(1890)に住吉平田神社の南鄰の地に創建した。

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2020年2月19日 四條畷 3 傳和田賢秀墓

 湊川で楠木正成とお互いの胸を突く形で自害した弟正季の息子で、正行をよく支えた従兄弟の和田賢秀の墓も近くにあるということで行ってきた。正直、詳しくは知らないのであるが、武勇の譽れ髙い人であったという。個人的には、源義仲と今井四郞兼平のような閒柄だったのかな、と思ってしまう。

1.墓所
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★傳和田賢秀墓★  大阪府四條畷市南野四丁目15-6

 大阪府史蹟

・生年不詳、 正平三年/貞和四年一月五日(1348.2.4)沒。
・楠木正成の弟正季の息子。
・別名新發、賢快、源秀。
・湊川の戰いで伯父、父らが戰死した後、楠木一門の棟梁となった從兄弟の楠木正行に從い、共に勢力を囘復していった。
・武勇の譽れ髙く、正行に從い、常に參戰している。正平二年(1347)に紀伊國の隅田一族や河内國の細川顯氏、山名時氏を打ち破った。
・正平三年(1348)正月、四條畷の戰いで敗れ、正行らが自刃した後、髙師直の陣に潛入していたところをかつて味方であった湯淺本宮太郞左衞門に討たれた。討死の際に敵將の首に嚙み付き睨んで放さず、本宮太郞左衞門はそれが元で死んだとされており、土地の人人は賢秀の靈のことを歯嚙樣、轉じて齒神樣として祭っている。

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2020年2月19日 四條畷 2 小楠公楠木正行墓所

 四條畷は一度行っておかねばいけないところだと考えていたのだが、位置的になかなか行く機會もなかったのであるが、今回、いいチャンスだと思い、訪問。楠木家とはなんだか緣のあるところに行きがちなことも理由の一つ。吉野山が好きでときどき行くのだが、中千本の如意輪寺には後醍醐天皇の御陵があるが、正行はこの地より出陣したと傳えられている。私が地元で行く山には、楠木正成の城蹟、砦蹟などが點在している。神戶時代も湊川は度度行き、大學時代、大學病院での實習の折、友人と正成の墓に行っていたり、何か、行くとこと行くところで正成や正行の名前が出てきたりするのである。不思議な緣であることだが、そういうこともあっての四條畷である。

 まずは、傳楠木正行墓所。四條畷神社の參道と言われる道を西に突き當たったところにある。最初、まわり道から行ったので入り口がわからず難儀した。Googleマップのルートだとただただ遠囘りにもなることもあるということである。楠木だから「クスノキ」が植えられていたのか、いずれにせよ、府の天然記念物になってはいる。でも、正直、ここに、正行公が眠っているというイメージはなく、なんか、皇族の墳墓のような雰圍氣に似ている。あくまで傳承地であるからね。

 この正行さん、もしかしたら、父を越える人物であったかもしれないと考えると、若い死は非常に惜しいものだね。

1.石標
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2.石碑
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・大久保利通の揮毫による「贈從三位楠正行朝臣之墓」の銘。

3.巨大クスノキ
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★傳楠木正行墓所★ 大阪府四條畷市雁屋南町27-5

 大阪府史蹟

・生年不詳、正平三年/貞和四年一月五日(1348.2.4)沒。
・通稱は楠木金吾、楠木帶刀。尊稱は小楠公。
・大楠公楠木正成の長男にて嫡男。弟に正時、正儀がいる。
・延元元年/建武三年五月二十五日(1336.7.4)、父の正成が湊川の戦いで討死。さらに続く連敗で建武政權は崩壊し、後醍醐天皇は尊氏に降った。しかし、まもなく後醍醐天皇が京都から脫出して吉野に南朝を開き、南北朝の内亂が勃發。北畠親房の『神皇正統記』によれば、吉野に入るとき、後醍醐天皇は正成の一族を召し從えていたといい、以後、正行元服までは楠木黨は南朝の和泉守護代である同族の大塚惟正(楠木惟正)に率いられた。のち、正行が成長すると、惟正は楠木氏宗家の當主である正行を補佐し、楠木党と係わりの深いの武將らに書狀を送って參集を促すなどの働きをしている。
・ 延元四年/曆應二年八月十六日(1339.9.19)、後醍醐天皇が崩御。子の義良親王が後村上天皇として践祚した。この頃、旣に新田義貞、北畠顯家の兩雄も世になく、南朝方につく有力武將がいない中、補佐したのが楠木正行である。
・正行の史料上の初見は、延元五年/曆應三年(1340)四月八日に建水分神社に奉納した扁額で、「左衞門少尉橘正行」を稱している。正行は、父と同樣、河内國司と河内守護を兼任していたと考えられ、遲くとも同年四月二十六日には河内國司兼守護としての施行を行っている。
・正行がいつごろから北朝に対する戰鬪準備を始めたのか正確には不明であるが、正平二年/貞和三年(1347)に擧兵。その翌八月十日、正行はついに初陣に臨んだ。和泉和田氏の棟梁和田助氏らを率いて紀伊國隅田城(和歌山県橋本市隅田町)を攻めた(『和田文書 』)。隅田は、父の正成も元弘の亂後半戦で再擧した際に眞っ先に攻めた地域である。その後、河内國池尻を攻め、制壓、さらに、河内國の八尾城で少なくとも三度目の戰いを行い、連勝を重ねた。
・正平二年/貞和三年九月十七日(1347.10.21)、幕府の河内和泉兩國守護細川顯氏(細川奧州家當主)の本軍が立ち塞がった。藤井寺、敎興寺の戰いについては詳細は不明であるが、正行の夜襲を決定打として顯氏に大勝したとされる。
・正行の活躍によって、各地の南朝軍も鼓舞されつつあった。良海上人という人物が北朝公卿洞院公賢に報告した話によれば、東國で小山氏と小田氏が南朝側に復歸して蜂起を起こし、さらに宇都宮氏の武將が吉野から本國の下野國へ發向したという。
・幕府側は、細川顯氏、佐佐木氏賴の軍に、山名時氏、大友氏泰の軍を增援として送り、本腰を入れて南朝を討伐することに決定し、十月一日には、山名時氏らは楠木氏の本據である東條(大阪府富田林市南東端)を制壓目標として發向。一か月近い兩軍の睨み合いが續く中、正平二年/貞和三年十一月二十六日(1347.12.28)、ついに住吉・天王寺の戰いの火蓋が切られた。幕府第一軍の大將である細川顯氏は、大した戰いもしないまま遁走した。幕府第二軍の大將である山名時氏はしばらく踏みとどまったが、數人の弟を殺され、自身と息子の山名師義も手傷を負うという壊滅的な被害を受け、ついに撤退した。この時死んだ舍弟の一人は三河守山名兼義という人物だったという。細川顯氏と山名時氏は、決して弱い將ではなく、むしろその反對に、百戰錬磨の鬪將であった。しかも、二人とも決して慢心していた訳ではなく、十分な兵力をもって正行との戰いに臨んでいたと思われる。それにも關わらず、二人は正行に完膚なきまでに敗北した。
・幕府の最終手段として起用されたのは、將軍足利尊氏の懐刀であり、麾下最强の名將である執事髙師直、師泰兄弟であった。師直は顯氏と入れ替わりで河内及び和泉守護となり、幕府が中央で集められる限りの總兵力に近い大軍を結集させた。山城國から河内國へ入る手前で年を越した幕府軍は、正平三年/貞和四年(1348)一月二日、ついに總大將の師直の第一軍が國境を越えて河内守正行の領國である河内國に入り、同國讚良郡野崎(大阪府大東市野崎)の邊りに逗留した。それから三日後、讚良郡北四條(大阪府大東市北条)で正行と師直は激突した。世上に名髙い四條畷の戰いである。が、資料は非常に乏しく詳しくは不明である。いずれにせよ、正行から仕掛け、熾烈な戰鬪になったことは知られている。師直の勝因は兵數だけではなく、戰術でも正行に比べ一枚も二枚も上手であったためという。それでも、一時は正行軍が優勢であったとされる。
・四條畷の戰いの主戰場が北四條となっており、師直の本陣である野崎から北にずれているのは、正行の猛攻によって師直が撤退したからだという。濕地帶であるため、騎兵である師直の後退速度が遲いのも正行の作戰の範疇であり、南朝軍は追擊を續けた。しかし、ついに決定打を與えることが出來ないまま、幕府軍大將の師直は戰域からの離脫を完了した上に、南朝軍の戰線が伸びきってしまい、時刻も夕方を迎えて、正行らは力尽きてしまった。『園太曆』によれば、進退窮まった楠木正行とその弟楠木正時、そして親族の和田新發(和田賢秀)は自害した。その他、南朝の中院義定が阿蘇惟時に送った書狀によれば、開住良円、吉野の衆徒靑屋刑部らも討死し、正行も含めて二十七人もの武將が死亡したという。
・武將としての軍事的才能については、同時代に既に、敵對する北朝から「不可思議の事なり」と驚嘆されている(『園太曆』)。南北朝時代において、不可思議という語は、人の範疇を超えて神佛の領域にある存在に對する驚異の念を表す言葉であり、父の正成も『太平記』の古態本では同語によって畏敬されている。
・子の有無は不明である。

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2020年2月19日 四條畷 1 まんねん梅田本店

 日が変わったころ、眠る前の夜食に出かけた。ま、選択肢は他にもあったのだが一番ホテルに近いということで選択。今回は特製ラーメン。正直、おいしくなかった。スープが薄いというかコクがなく弱い。営業時間などを考えるとあんまりスープを煮込んでいないのかな、と思わざるを得ない。心斎橋店で過去食べて、今回、梅田本店で二度食べてそう感じるということはもはや魅力がないということになる。正直がっかりなラーメン屋だな。

1.特製ラーメン
20200219 1 まんねん梅田本店 (1)

2.オムチャーハン
20200219 1 まんねん梅田本店 (2)

(味評価)
★★★★★☆☆☆☆☆ 5/10点

●まんねん梅田本店●

住所 大阪府大阪市北区堂山町5-9 扇会館 1階

電話 06-6315-5121

営業時間 平日  AM11:00~翌AM9:00
     日曜日 AM11:00~翌AM4:30

定休日 なし

HP http://www.mannenikimannen.com/

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